虫がね。
それは大きめの黒い影でしたが、その虫が私の視界に入ったんです。蝿。最初はそう思いました。今日私の働くレジは入り口付近なのできっと明かりに惹かれて入ってきたのでしょう。何れにせよ早く何処かへ行ってくれと思いました。
事実それは虫でした。紛うことなく虫。ただし蠅ではなく別の虫でした。蜂に似ているその虫は不気味に黒く、私の仕事道具であるタッチパネルに止まりました。嗚呼、嫌だ。どうしたら良いというのでしょう。私はその奇怪な虫のいるパネルを押さなければならないのに。
お客様は財布をのぞき込んでいました。早くこの虫を始末しないといけません。方法は何でも良いのです。殺すか、追い払うか、またはいったん捕らえるか。虫に触れたくないので私は手で追い払おうかと思いました。しかしこの虫は飛ぶのです。追い払った後また私や、よもやお客様の所に行ったらパニックになる可能性があります。
殺すか、捕らえるか。私は捕らえることにしました。幸いにも私が虫と対面してこの間1分も掛かっていません。お客様はまだ自分の財布の紙幣を数えています。私は濡れた豆腐や水気のあるものを包むポリ袋を手袋の様にはめて、その虫を素早く摘みあげました。
「あ、いたいっ」
私は悲鳴に似た声を上げました。その声を聞いてお客様はやっと私の不審な行動に気が付いたらしく「どうかしたんですか?」と問いかけてきました。虫は袋の中です。しかし私は不運なことに薬指を刺されてしまった様です。「すみません、パネルに蜂の様なものが…」と説明すると「刺されたのですか?」と聞き返されました。薬指の火傷の様な痛み。虫に刺されると熱くなるものかしら。ともかく何らかの攻撃を受けたようなので「はぁ…でも大丈夫です」と言ってレジを再開しました。虫に刺されたことを最後までお客様は心配しておられたようで、帰り際にチーフに虫のことを報告して行った様でした。
チーフがつかつかと私の所に来ました。「虫は?」と聞かれたので「はい、ここに」と袋を差し出しました。捕まえた虫は事務所に持っていかれました。私は患部に異常がなかったのでそのまま仕事を続けることを許されましたが、何か薬指からくる違和感のようなものが消えず、あの虫が毒を持っていて右手が使えなくなったらどうしよう…とそんなことばかり考えて変にどきどきしていました。
帰り際、店長に「虫はどうしましたか?」と聞いたら「潰してしまったよ、虫を潰すのにはやっぱり足が良い」と言ってクククと笑うのでした。私は妙に疼く薬指を握りしめて、早々に家に帰りました。